2026年7月、高市早苗首相がX(旧Twitter)に投稿した「就任以来、0時間〜3時間睡眠が常態化」という内容が、国内外で大きな議論を呼んでいます。米紙ニューヨーク・タイムズは「ワークライフバランスや睡眠不足の危険性に関して全国的な議論を巻き起こした」と報じ、英紙インディペンデントはサッチャー元英首相との比較を行い、韓国メディアは支持率低下との関連を指摘しました。
東京新聞
高市首相の「寝てないアピール」海外でも話題…イギリスは「サッチャー氏」と比較、韓国は「支持率」に注目
この報道を目にしたとき、私は社会保険労務士として、そして多くの経営者と従業員の間に立ってきた実務家として、非常に複雑な思いを抱きました。
なぜなら、この問題は単に「首相個人の働き方」という話ではなく、日本の組織文化そのもの、そして会社と従業員の関係性を根底から規定している構造的な問題だからです。
目次
リーダーの働き方は、組織全体の「暗黙の基準」になる
私がこれまで数多くの企業の労務管理に関わってきた中で、最も強く感じてきたことがあります。
それは、トップの働き方が、組織全体の働き方を決定づけてしまうということです。
経営者が深夜までメールを送り続ければ、管理職はそれに応えようとします。管理職が休日も仕事をしていれば、一般社員も「自分だけ休むわけにはいかない」と感じます。そしてその連鎖は、組織全体に「長時間労働こそが献身の証である」という価値観を植え付けていきます。
法律で労働時間の上限が定められていても、36協定がきちんと締結されていても、就業規則に休暇制度が明記されていても、トップが「寝てない」「休んでない」と発信し続ける限り、現場は絶対に変わりません。
なぜなら、人は法律や規則ではなく、目の前の「空気」に従うからです。そして、その空気をつくっているのは、間違いなくトップの姿勢なのです。
高市首相の投稿に対して、ニューヨーク・タイムズが「国民のために働き続ける指導者としてアピールしたいようだった」と分析したのは、まさにこの構造を的確に指摘しているといえます。リーダーは自らの働き方を通じて、「何が正しいのか」「何が評価されるのか」というメッセージを発信してしまうのです。
献身性を「睡眠時間の短さ」で測る危うさ
私は、経営者の献身性を否定するつもりは全くありません。
むしろ、多くの経営者が本気で会社のため、従業員のため、お客様のために心を砕き、身を削っていることを、私は日々目の当たりにしています。その姿勢には、心から敬意を抱いています。
しかし、献身性を「睡眠時間の短さ」や「休まないこと」で示そうとする文化には、強い危機感を覚えます。
なぜなら、それは結果として、組織全体を疲弊させ、持続可能性を失わせ、最終的には会社と従業員の健全な関係を破壊するからです。
英紙インディペンデントが、高市首相がサッチャー元首相を模範としていると指摘した部分も象徴的です。サッチャー氏は「一晩の睡眠時間は4時間程度だった」と伝えられていますが、それを「素晴らしいリーダーシップの証」として称賛する文化こそが、問題の根源なのです。
真のリーダーシップとは、自分が倒れるまで働き続けることではなく、組織全体が健全に機能し、持続的に成果を出し続けられる仕組みをつくることだと私は考えています。
会社と従業員の「良い関係」とは何か
私は社労士として、常に「会社と従業員の良い関係」を支えることを使命としてきました。
そして、その「良い関係」とは、決して経営者が一方的に献身し、従業員がそれに従うという構図ではありません。
会社と従業員が互いに尊重し合い、互いに伸びる関係をつくること。それこそが、本当の意味での健全な組織だと思っています。
ところが、トップが「寝てない」「休んでない」というメッセージを発信し続けると、組織には次のような歪みが生まれます。
1. 従業員が「自分も同じようにしなければ」と追い込まれる
経営者は自らの意思で長時間労働を選んでいるつもりでも、従業員はそれを「期待」として受け取ります。「社長がこれだけ頑張っているのに、自分が定時で帰るわけにはいかない」と感じ、本来は不要な残業をしてしまうのです。
2. 「頑張りの基準」が歪む
成果ではなく、労働時間の長さや睡眠時間の短さが評価の基準になってしまいます。これは、本来評価されるべき「効率性」や「創造性」を軽視する文化を生み出します。
3. 心身の健康が損なわれる
慢性的な睡眠不足は、判断力の低下、ミスの増加、メンタル不調のリスクを高めます。それは個人の問題にとどまらず、組織全体の生産性を低下させます。
4. 「助けを求めること」ができなくなる
トップが弱音を吐かず、休まず働き続ける姿を見せ続けると、従業員も「助けを求めてはいけない」「休んではいけない」と感じるようになります。結果として、問題が深刻化するまで表面化せず、気づいたときには手遅れになっているケースが非常に多いのです。
私が現場で見てきた「社長が変われば、会社が変わる」事例
私はこれまで、多くの企業で「社長が働きすぎているから、社員も帰れない」という相談を受けてきました。
ある製造業の会社では、社長が毎日深夜まで工場に残り、休日も出勤していました。従業員も「社長がいるのに帰れない」と感じ、長時間労働が常態化していました。労働基準監督署から是正勧告を受け、私が介入することになりました。
私は社長に、まず事実を整理しました。
「社長が働きすぎることで、従業員も帰れなくなっている。結果として、労働時間が増え、残業代が膨らみ、従業員の疲労が蓄積し、ミスやトラブルが増えている。これは会社にとっても、従業員にとっても、決して良い状態ではありません」
そして、こう提案しました。
「社長がまず、定時に帰る日をつくってください。週に一日でも構いません。それだけで、従業員の意識は変わります」
最初、社長は強く抵抗しました。「自分が帰ったら、仕事が回らない」「従業員に示しがつかない」と。
しかし、実際に試してみると、驚くべきことが起きました。
社長が定時に帰る日をつくったところ、従業員も安心して帰るようになり、結果として残業時間が大幅に減少したのです。しかも、業務の効率化が進み、成果は以前と変わらなかったのです。
社長はこう言いました。
「自分がいなくても回る仕組みをつくることが、本当の経営だったんですね」
この言葉は、私にとって非常に印象的でした。
経営者の仕事は、自分が倒れるまで働くことではなく、自分がいなくても回る組織をつくることだと、改めて確信した瞬間でした。
「働き方改革」とリーダーの姿勢の乖離
今回の高市首相の投稿が国内外で議論を呼んだ背景には、日本が推進してきた「働き方改革」との乖離があります。
政府は長時間労働の是正、ワークライフバランスの推進、健康経営の促進を掲げてきました。労働時間の上限規制も厳格化され、企業には従業員の健康管理が法的に義務づけられています。
しかし、その改革を推進すべき立場のトップ自身が「0時間〜3時間睡眠が常態化」と発信してしまうことの矛盾を、多くの人が感じたのだと思います。
法律や制度は、それを運用する人の姿勢によって、まったく違う意味を持ちます。
いくら働き方改革を法律で定めても、リーダーが「自分は寝てない」と言い続ける限り、現場は「結局、頑張ることが求められているんだ」と受け取ってしまいます。
これは企業の経営者にも、まったく同じことが言えます。
就業規則で「残業は事前申請制」と定めても、社長が深夜にメールを送り続ければ、従業員は「申請しなくても働くべきだ」と感じます。
年次有給休暇の取得を促進しても、社長が一度も休まなければ、従業員は「休むのは悪いことだ」と感じます。
制度と実態の乖離は、組織の信頼を損ない、会社と従業員の関係を歪めます。
トップが「休む」ことの価値
私は、経営者に対して「休んでください」と伝えるとき、決して「楽をしてください」と言っているわけではありません。
休むこと、睡眠をとること、健康を保つことは、経営者の責任であると考えているからです。
なぜなら、経営者が倒れたら、会社全体が止まってしまうからです。従業員の生活も、取引先との関係も、すべてが危機に瀕します。
だからこそ、経営者は自分の健康を守る義務があるのです。
そして、それ以上に重要なのは、経営者が「休む姿」を見せることで、従業員も安心して休めるようになるということです。
「社長も休んでいるなら、自分も休んでいいんだ」
この感覚が組織に浸透することで、初めて健全な働き方が実現します。
「自由度の高い働き方」とは、選択肢があること
私が理想とする組織は、自由度が高く、選択肢がある組織です。
「頑張りたい人は頑張れる。休みたい人は休める。それぞれが自分の状況に応じて働き方を選べる」
そんな環境こそが、会社と従業員の良い関係をつくると信じています。
しかし、トップが一つの働き方しか示さなければ、従業員には選択肢がありません。
「寝ないで働くことが正しい」という価値観だけが提示されれば、従業員は「それに従わなければ評価されない」と感じます。
逆に、トップが多様な働き方を認め、自らも柔軟に働く姿を見せれば、従業員も「自分に合った働き方を選んでいいんだ」と感じられるのです。
結局、組織は「人」でできている
私が社労士として、常に大切にしている視点があります。
それは、法律や制度だけでなく、人間そのものを見るということです。
組織は、ルールや仕組みだけでは動きません。そこには必ず「人」がいて、「感情」があり、「関係性」があります。
トップがどんな姿勢で働いているか。どんな言葉を発しているか。どんな価値観を示しているか。
それらすべてが、組織の文化をつくり、会社と従業員の関係を規定していきます。
高市首相の投稿は、一つの象徴的な出来事でした。
しかし、これは決して遠い世界の話ではなく、日本中の企業で、毎日起きていることなのです。
終わりに──良い会社を一つでも多く増やすために
私は社労士として、良い会社を一つでも多く増やしたいと思っています。
そして、「良い会社」とは、会社と従業員が互いに尊重し合い、互いに伸びる関係をつくれている会社だと考えています。
そのためには、トップ自身が「自分の働き方が組織全体に与える影響」を自覚し、健全な姿勢を示すことが不可欠です。
献身性は、睡眠時間の短さでは測れません。
真の献身とは、組織全体が持続的に成果を出し続けられる環境をつくることです。
もし、あなたが経営者なら、ぜひ一度立ち止まって考えてみてください。
「自分の働き方は、従業員にどんなメッセージを送っているだろうか」
「自分が示している姿勢は、組織全体の健康を守るものになっているだろうか」
そして、もしあなたが従業員なら、こう考えてみてください。
「この組織は、自分に選択肢を与えてくれているだろうか」
「会社と自分は、互いに伸びる関係を築けているだろうか」
会社と従業員の良い関係は、一日で築けるものではありません。
しかし、トップが一歩を踏み出せば、組織は必ず変わります。
それが、私がこれまで現場で見てきた、揺るがない事実です。

