令和8年熊本地震により被災された皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。
熊本県内では、被災した地域や事業者が復旧に取り組む一方、地震による直接的な被害を受けなかった観光施設や宿泊施設、飲食店などでは営業が続けられています。
しかし、施設が営業できることと、観光需要がすぐに元へ戻ることは同じではありません。
今回の地震では、熊本県をはじめ九州各地で宿泊予約のキャンセルが発生しました。そのため国や熊本県では、観光需要の回復に向けた「九州ふっこう応援割」「熊本ふっこう応援割」を実施することとしています。
これから熊本の観光業は、「地震による需要の減少」から「復旧」、そして「観光需要の回復」へと状況が変化していくことが予想されます。
こうした時期に忘れてはならないのが、観光業を支えている「人」の問題です。
ホテルや旅館、飲食店、観光施設、交通などで働く従業員自身が被災していることもあります。また、需要が減少して仕事が少なくなる時期がある一方、需要が戻れば一転して人手不足となることも考えられます。
この記事では、令和8年熊本地震後の復旧・需要回復期に、熊本の観光事業者が考えておきたい労務管理について、社会保険労務士の視点から整理します。
目次
観光業では「需要減少」と「需要回復」の両方を考える
震災後の観光業の労務管理が難しい理由の一つは、経営環境が短期間で変化する可能性があることです。
地震直後には予約のキャンセルや来客数の減少によって、予定していた仕事がなくなることがあります。
その場合には、営業時間を短縮したり、勤務シフトを減らしたり、一時的な休業を検討したりすることもあるでしょう。
ところが、道路や観光施設などの復旧が進み、正確な情報が広がって観光客が戻ってくると、今度は逆に人手が足りなくなる可能性があります。
特に宿泊業や飲食業では、もともと人手不足が課題となっている事業所も少なくありません。
需要が戻ったからといって、すぐに従業員を増やせるとは限らないため、既存の従業員に残業や休日出勤が集中することも考えられます。
つまり震災後の観光業では、
「仕事が減ったときに、どう雇用を維持するか」
と、
「仕事が戻ってきたときに、どう無理なく現場を回すか」
という二つの問題を、時間軸で考えていく必要があります。
仕事が減少したとき、すぐに人員削減と考えない
予約のキャンセルなどによって売上や仕事量が減少すると、人件費の負担は経営上の大きな問題になります。
このようなとき、経営者として人員削減を検討せざるを得ない場合があることは理解できます。事業そのものが存続できなければ、雇用を守り続けることもできません。
それでも、私は人員削減はできる限り最後の手段にしていただきたいと考えています。
震災によって損傷した建物や設備は、時間と費用はかかっても復旧できる可能性があります。
しかし、人を失ったら、簡単には取り戻せません。
これまで仕事を覚え、経験を積み、会社やお客様、地域との関係を築いてきた従業員が離職した場合、観光需要が回復してから同じような人材を採用し、育成し直そうとしても、短期間で元の状態に戻すことは困難です。
特に震災後には、会社の都合による人員削減だけでなく、従業員自身が仕事を続けられなくなる可能性にも注意が必要です。
自宅の片付けや修繕、行政手続き、子どもや高齢の家族のサポートなど、被災した従業員には通常時にはない負担が生じます。
そのため、「これまでと同じように勤務できないのであれば仕方がない」と考えるのではなく、一時的な勤務時間の変更、シフトの調整、年次有給休暇や会社の休暇制度の活用などによって、仕事と生活再建を両立できないか検討していただきたいと思います。
会社にとっても厳しい時期ですから、すべての希望に応えることができるとは限りません。それでも、従業員と話し合いながら「どうすればこの人に働き続けてもらえるか」を考えることには、大きな意味があります。
また、令和8年熊本地震に伴う経済上の理由によって事業活動の縮小を余儀なくされた事業主については、雇用調整助成金の特例措置が設けられています。
要件を満たす場合には、こうした制度も活用しながら、休業等によって雇用を維持できないか検討することができます。
もちろん、こうした対応を尽くしても事業の復旧や存続が難しく、人員削減を検討せざるを得ないケースはあります。私は、そのような経営判断まで否定するものではありません。
重要なのは、人員削減を最初の選択肢にするのではなく、雇用を維持する方法を十分に検討したうえで、それでも難しい場合の最後の選択肢として考えることです。
設備は復旧できても、人を失ったら簡単には取り戻せない。
震災から事業を立て直すとき、このことを経営者の皆さまにはぜひ覚えておいていただきたいと思います。
観光客が熊本へ戻ってきたとき、復興した施設で再びお客様を迎えるのは「人」です。
だからこそ、事業の復旧と同時に、そこで働く人の雇用と生活再建をどう支えるかを考えることも、観光業の復興の一部ではないでしょうか。
従業員自身が被災していることにも配慮する
震災後の労務管理を考えるうえで、従業員自身も被災者である可能性を忘れてはいけません。
会社や店舗には大きな被害がなくても、従業員の自宅や家族が被災している場合があります。
通勤経路が変わったり、家族の世話が必要になったり、生活の再建に時間を必要としたりすることもあります。
前章でも触れたとおり、年次有給休暇の取得、勤務時間や勤務日の調整、本人の希望を踏まえたシフト変更など、それぞれの事情に応じて対応できないか検討することが大切です。
また、会社独自の災害休暇や特別休暇などの制度が就業規則に定められている場合には、その内容も確認しておきましょう。
制度がない場合でも、今回の経験をきっかけとして、今後の災害に備えた休暇や勤務ルールを検討することには意味があります。
災害時には、会社にも従業員にも「いつも通り」が難しい事情があります。
制度だけで判断するのではなく、本人の状況を確認しながら、事業運営とのバランスを取ることが重要です。
「熊本ふっこう応援割」後の需要回復も見据える
令和8年9月11日、熊本県は観光需要の回復に向けて「熊本ふっこう応援割」を実施することを発表しました。
現時点で公表されている内容では、令和8年10月1日から12月25日までの宿泊分について、旅行・宿泊料金の60%を割り引く制度となっています。割引額には上限があり、予算の上限に達した場合は終了します。
販売開始は9月15日とされています。
観光事業者にとっては、こうした施策をきっかけとして観光需要が回復することが期待されます。
一方、労務管理の観点から考えると、ここから別の課題が始まる可能性があります。
予約が短期間に増えれば、ホテルや旅館ではフロント、客室清掃、朝食、宴会などの業務量が増加します。
飲食店や観光施設でも、週末や連休を中心に来客が集中することが考えられます。
だからこそ、実際に忙しくなってから対応するのではなく、需要回復を見越して勤務体制を確認しておくことが重要です。
需要が戻る前に確認したい労働時間とシフト
観光業では、もともと労働時間の管理が複雑になりやすい傾向があります。
早朝の朝食準備、チェックイン・チェックアウト対応、客室清掃、仕込み、開店準備、閉店後の片付けなど、営業時間の前後にも多くの業務があります。
こうした業務についても、会社の指揮命令下で行われるものであれば労働時間として適切に把握する必要があります。
需要が急激に戻ってきたときほど、「少し早く来てもらう」「終わるまで残ってもらう」といった対応が積み重なりやすくなります。
勤怠記録と実際の勤務時間にズレがないか、休憩を確実に取得できているか、休日が確保されているか、特定の従業員に残業が集中していないかなどを確認しましょう。
時間外・休日労働を行わせる場合には、36協定の締結・届出や時間外労働の上限についても改めて確認する必要があります。
「復興のためだから」「今だけ忙しいから」という理由で、労働時間のルールがなくなるわけではありません。
むしろ復旧・復興期だからこそ、長く働き続けられる勤務体制をつくることが重要になります。
人手不足を「残業」だけで埋めない
需要回復期には、人手不足を既存従業員の残業だけで補おうとしないことも重要です。
業務そのものを見直してみると、必ずしもすべての仕事を従来と同じ方法で行う必要はないかもしれません。
例えば、時間帯ごとの業務量を整理する、担当業務を見直す、繁忙時間帯だけ人員を厚くする、パート・アルバイトを活用する、業務を標準化して複数の従業員が担当できるようにするといった方法があります。
勤怠管理システムなどを利用して、どの時間帯、どの部門、どの従業員に残業が集中しているのかを把握することも有効です。
感覚だけで「人が足りない」と判断するのではなく、勤怠データと実際の業務量を照らし合わせることで、改善すべきポイントが見えてくることがあります。
また、震災後は従業員の生活再建の状況も一人ひとり異なります。
単純に「出勤できる人に多く働いてもらう」という対応を続けると、今度はその従業員に負担が集中してしまいます。
需要回復を一時的な長時間労働で乗り切るのではなく、業務そのものを整理しながら持続できる勤務体制をつくることが必要です。
採用を急ぐときほど労働条件を明確にする
観光需要が回復し、急いで人材を採用しなければならなくなったときにも注意が必要です。
「とにかく人が欲しい」という状況では、求人票の作成や労働条件の説明が不十分になりやすいからです。
勤務時間、休日、賃金、時間外労働の有無、業務内容、就業場所、契約期間や更新に関する事項など、必要な労働条件を適切に明示しましょう。
特にシフト制では、「シフト相談可」と求人票に記載していても、実際には土日祝日の勤務がほぼ必須ということもあります。
採用時の説明と実際の勤務に大きな違いがあれば、せっかく採用した人が短期間で退職する原因になります。
そして、震災前から働いていた従業員を失ってしまった場合、新たに採用した人が同じように仕事を担えるようになるまでには時間が必要です。
だからこそ、人手不足になってから採用だけで解決しようとするのではなく、現在働いている人にできるだけ長く働き続けてもらうことと、新しい人材を迎えることを両輪で考える必要があります。
外国人材についても通常時以上に丁寧な対応を
宿泊業や飲食業などでは、外国人材が重要な担い手となっている事業所もあります。
災害時には、日本語による情報だけでは必要な情報を十分に理解できない従業員がいる可能性にも注意が必要です。
勤務変更や休業、避難、会社からの連絡などについて、本人が理解できているか確認することも大切です。
また、新たに外国人材を採用する場合には、在留資格と従事する業務との関係、労働条件、社会保険・労働保険など、通常の採用時に必要となる確認を省略しないようにしましょう。
人手不足だからこそ、採用を急ぐことと手続きを省略することを分けて考える必要があります。
復旧期は労務管理を見直す機会にもなる
災害は、本来起きてほしくない出来事です。
一方で、事業の復旧過程では、それまで当たり前に行っていた働き方を見直さなければならない場面も生じます。
例えば、
- 誰かが休むと現場が回らない
- シフト作成が一人の管理者に集中している
- 勤怠記録と実際の勤務時間にズレがある
- 緊急時の従業員への連絡方法が決まっていない
- 休業や災害時の取扱いが就業規則に十分定められていない
- 特定の従業員しかできない仕事が多い
といった問題が、災害をきっかけとして見えてくることがあります。
これらは災害時だけの問題ではありません。
平常時の人手不足、長時間労働、離職、事業継続にも関係する問題です。
特に今回の震災では、「特定の人がいなければ事業を再開できない」という人的な事業継続リスクが見えてきた事業所もあるのではないでしょうか。
業務の標準化、複数の従業員が対応できる体制づくり、勤怠管理のデジタル化、緊急時の連絡体制などを整えることは、次の災害への備えであると同時に、平常時の働きやすさにもつながります。
復旧を単に「元の状態に戻すこと」と考えるのではなく、これまでの働き方を点検し、より持続可能な職場へ変えていく機会として捉えることもできるでしょう。
観光の復興と「雇用を守ること」はつながっている
熊本には、熊本城、阿蘇、温泉地をはじめ、多くの観光資源があります。
しかし、観光を支えているのは施設や景観だけではありません。
宿泊施設で旅行者を迎える人、料理を提供する人、客室を整える人、観光施設を運営する人、交通を支える人など、多くの働く人によって熊本の観光は成り立っています。
震災によって観光需要が落ち込んだときには、利用できる制度や勤務方法を検討しながら、できる限り雇用を維持する。
従業員自身が被災している場合には、仕事を続けながら自分や家族の生活を再建できる方法を一緒に考える。
そして観光客が戻ってきたときには、一部の従業員に無理を集中させるのではなく、長く働き続けられる勤務体制をつくる。
これらは別々の問題ではありません。
設備は復旧できても、人を失ったら簡単には取り戻せません。
もちろん、事業の存続そのものが難しい状況で、すべての雇用を維持することが現実的ではない場合もあります。
それでも、人員削減を最初の選択肢とするのではなく、雇用を維持するために何ができるのかをまず考える。
それは従業員を守ることだけではなく、観光需要が回復したときに事業を再び動かす力を残すことでもあります。
地域の観光を復興させることと、そこで働く人の雇用や生活を守ることはつながっています。
「元に戻す」だけでなく、災害を経験したからこそ、以前よりも災害に強く、人が働き続けられる職場をつくる。
それもまた、熊本の観光業の復興を考えるうえで大切な視点ではないでしょうか。
参考情報
※以下は令和8年(2026年)9月13日時点で確認した公的情報です。支援制度の内容、対象期間、申請要件等は変更されることがあります。利用を検討する際は、必ず各機関が公表する最新情報をご確認ください。
厚生労働省「雇用・労働に関する特例措置や支援制度(令和8年熊本地震について)」
令和8年熊本地震に関する雇用・労働分野の支援制度、事業主・労働者向け情報、相談先などがまとめられています。
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000134526_00005.html
厚生労働省「雇用調整助成金 令和8年熊本地震特例」
地震に伴う経済上の理由によって事業活動の縮小を余儀なくされた事業主を対象とする、雇用調整助成金の特例措置について確認できます。
厚生労働省「令和8年熊本地震について」
労働基準法・労働契約法等に関するQ&A、安全衛生、社会保険関係など、厚生労働省の熊本地震関連情報がまとめられています。
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_73935.html
熊本県「熊本ふっこう応援割」
令和8年10月1日から実施される熊本県の旅行・宿泊料金の割引支援について、対象期間、割引率、上限額、販売開始時期などを確認できます。
https://www.pref.kumamoto.jp/soshiki/208/279956.html
観光庁「九州ふっこう応援割」
熊本県を含む九州地方の観光需要回復を目的とした「九州ふっこう応援割」の概要や、各県の情報を確認できます。
https://www.mlit.go.jp/kankocho/page13_00002.html
熊本県「令和8年熊本地震に係る事業者支援施策説明会」
熊本県が実施する事業者向け支援施策説明会に関する情報が掲載されています。

